路地番外編3

路地と言ったら立派過ぎかな(笑)

大手ブレーキ工場のテストコース

画像


アスファルトが厚すぎて取り壊すのに困難らしい…

なんて不確かな話もありますが、イベントで臨時の駐車場や

消防の行事に使ったりと大変役にたっております。

人々の安全と命を守る「ブレーキ」

このまま残しておくと後世に残せる遺構となるんじゃないかと…

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この記事へのコメント

渋江四郎
2015年08月09日 21:19
今もそのまま残っているんですね!

因みにこの会社が岩槻に進出したのが1962年。
テストコースが1967年完成しました。
1988年福島県いわき市にテストコースが完成したので、役割を終えたと思われます。

今は公園なので市有地でしょうが、当時はどうだったのでしょうか?
渋江四郎
2015年08月13日 22:05
ひさびさに

番外編外伝5

終戦70年の今年ですか、戦争中、岩槻に飛行場が有ったのは、ご存知でしょうか?
陸軍越谷飛行場、末田の小字名を取って論田飛行場と呼ばれていました。

終戦間際に、突貫で作られましたが、使われずに終戦を迎えました。一度岩槻藩主大岡さんの子孫が、トラブルで、不時着したことが有ったとか。

その滑走路(これも道)1500メートル、今も残っているんです。しらこばと水上公園近くに。

さらに当時の滑走路の路面(コンクリート)の一部が、ある神社に残っているんです。

さてどこかわかりますか?
2015年08月14日 20:57
渋江さん

滑走路のことは聞いてましたが、この滑走路の一部が神社に残っているとは… ( ゚Д゚)
渋江四郎
2015年08月15日 11:00
お店からも歩いて行ける範囲?に有ります。

このブログにも時々登場するラーメン店からだと歩いて2〜3分のところにある神社です。

通り沿いにある記念碑がそれです。
もしかしたら知らずに見ているかもしれません。
渋江四郎
2015年08月19日 08:36
KATOさん
ヒントです。
ラーメン店は、竹岡屋さん。

記念碑の裏面注目。でもこの時期は植物が・・・?
2015年08月19日 18:31
え! 渋江さん
ラーメン屋さんの東方面ですね!
記念碑の裏側! 行ってきます!w
渋江四郎
2015年08月21日 15:47
KATOさん
見つかりましたか?
(川沿いです)

なお私もまだ見たことはないのですが、飛行場跡周辺の民有地に当時のコンクリート製の建物の基礎などがいくつも残っているそうです。

お林公園にかって有った防空壕とともに、岩槻の貴重な戦争遺産ですね。
なお我が家の庭にも防空壕を掘って避難していたそうです。

岩槻は空襲に有っていませんが、河合のほうに米軍機が墜落?したとかの話も伝わっていたりします。
2015年08月22日 13:49
渋江さん

石碑のこと投稿しました。
また、お林公園の防空壕跡、子供ころよく遊びました♪
初めのころは手探りをしながら遊んでいましたが…
懐中電灯をもって中を見てから入ってません!
ものすごい虫の数だったんです(笑)
渋江家にも防空壕が! へ~!
防空壕が有った家なんて貴重だったでしょうね?

そして、ここには書けませんが川合の墜落機の㊙話聞いております(^^♪

shige
2015年08月24日 17:26
渋江さん
すみません、またまたご教示くださいませ
m(_ _)m

岩槻は直接の空襲こそ受けていない様ですが、機銃掃射はあったと聞いてます。岩小時代、ベテランの先生が岩小もグラマン攻撃?を受けたと言ってました。その時に逃げ込んだと言う防空壕の跡も見せてもらいました。そこは、木造校舎の教室の床から入る仕掛けとなっていた様に記憶しています。

ところが低学年だったせいか、いったいどこの校舎だったのか全く記憶にありません(汗)。もしかしたらご存知でしょうか?

KATOさん
自分もお林公園の防空壕に懐中電灯で入って、ネズミを咥えているヘビと遭遇し、エライ怖かった思い出がありますよ!!
shige
2015年08月26日 08:31
補足です↑

木造校舎の防空壕への入り口ですが、防空壕そのものは既に埋め戻されていてありませんでした。また、校舎は何度か移動しているものもあり、実際の防空壕との位置関係も正しくないかもしれません。入り口下は普通の校舎床下の様相だった様に思います(防空壕の痕跡を見た覚えはありません)。

曖昧な記憶ですが、当時、一般教室として使っていなかった部屋だったと思います。また、校長室があった校舎でない事だけは確かであります。
渋江四郎
2015年08月26日 21:21
shigeさん
この話しは知りませんでした。
しかし見つけました。

整理しますので数日お待ち下さい。
2015年08月27日 16:53
木造校舎で戦前から位置が動いていないのは、赤屋根校舎と一番南にあった大正時代の校舎だけって聞いた覚えが。あっしも防空壕の事はわからないっす。岩中時代にシゲさんの実家にある巨大な穴を防空壕かって聞いたら、それは芋を保管する土倉だと頭を殴られてましたっけ
shige
2015年08月27日 21:12
渋江さん
いつも勝手なお願いで申し訳ありません(^_^ゞ

坊へ
次は穴に突き落とす!!!(-_-凸
渋江四郎
2015年08月27日 22:08
前段です。
防空豪ですが、掘る場所が有った家では結構有ったらしいです。

ちなみに我が家のは、四人がやっと入れる大きさだったようです。

近所には軍が掘った?6畳程のものも有ったそうです。
渋江四郎
2015年08月30日 23:50
shigeさん
お待たせしました。

「岩槻小百年のあゆみ」に掲載の座談会に有りましたので転載します。

昭和18年卒業のかたも防空豪を掘ったそうです。

『ぼくらが掘ったんです。表庭の交通公園の下と裏庭の方と二カ所掘りました。』
『警戒警報の時は、一斉下校でした。土囲裏を帰った。途中で帰った事もある。私はP51にねらわれて銃撃されてこわかった』
『防空頭巾をかぶって帰った。空襲が激しい時は登校しなかった』

続く
shige
2015年08月31日 19:03
おおおっ!渋江さん、すごいです(@_@)
機銃掃射にあったという話は、けっこう聞いたことがありますし、その痕も見た覚えがありますが、こうやって記録に残っているんですね。

ところで「交通公園」とは、赤屋根校舎前にあった公園のことでしょうか。おぼろげながらの記憶は、教室を2つぶち抜いた小講堂の様な場所の床に、防空壕への入り口があったことです。

そういえば、体育館を作る際に地面下に色んなモノが埋まっていて、それは岩小が昔は墓地だったからとの話だったんですが、ひょっとして防空壕を埋めた跡だったのかもしれませんね!そこが「裏庭」だとすると、謎の校舎はやはり赤屋根校舎なのでしょうか・・・?
shige
2015年09月03日 00:24
渋江さん、今、新しい話がわかりました。

岩小唯一の直系後輩から、木造校舎床下からの防空壕とは、どうやら赤屋根校舎で間違いないとさっき判明したところです。色々と情報ありがとうございました!

その場所は1階の西側にあった昭和44~46年頃には「視聴覚室」と呼ばれてた2部屋続きの講堂スペースで、その後全4年生用の校舎になったので、その時に床も改装されてしまったらしく、渋江さんの時代にはもう痕跡はなかったのでしょうね。

体育館側(北側)の防空壕の話はわからないそうですが、一番南の大正校舎にも同じ様な床下入り口があったと記憶しているらしいです(防空壕入り口かどうかはわからないとのこと)。

岩小唯一の直系後輩とは妙な言い方なんですが、1つ下のT保育園の後輩なんですよ。T園って岩小に一番近い保育園なのに、全国一のマンモス校にもなった岩小だったのに、学年たった1人のT園卒の男子だったのが、さっき教えてくれた彼なんです。いや、それでも最初は男子2名いたんだけど、片方が交通事故で2年の春に死んじまって、彼1人になっちまったんですよね。当時、埼玉は交通事故全国一の県でした。誰もいっしょの幼稚園(保育園)卒がいない、岩槻育ちなのにまるで転校生みたいだって泣いてました。自分も親しい友達が皆な太田小に行きましたけど、それでも学年にはT園の連中がそこそこいただけに、心が苦しくなるほどかわいそうに思っていました。頭が良く、学級委員長やったり、ピアノが抜群にうまくて学園ドラマならヤワなキャラクターとして描かれるかもしれところ、まるで逆で、気が強くけっこうな悪ガキだったのが救いでした。それでも岩少はマンモス校だっただけに、その寂しさは良くわかりましたよ。口癖が太田小に行きたかった、でしたからね。まるで自分と同じです。すみません、かなり今日は飲んでます。。。
2015年09月03日 17:28
中年酔っ払いの私的懐古レスがうっとうしいっす
ま、保育園っていや幼稚園と違って4年も過ごすし、それも朝から晩までいっしょなんだから兄弟同然、小学校で別れたら悲しいんでしょうっすけどね
2年の春休みにMが交通事故で死んだのは、同じ学年だったから良く覚えてるし、交通事故じゃなくても元荒川で溺れたり・・・
シゲさん、学級委員ってSかな?あっしはT園だったとは知りませんでした。そういえば幼稚園の話を一切聞いた覚えがないし、委員のくせに担任とケンカはするは(実は痛快だった!)、でも確かどこかに越したんじゃなかった?へ~今でも連絡取っているんすね。ああっ、まるで私信の様な書き込み(汗;;)
加藤さん、毎度ごめんっす!
2015年09月04日 12:32
なんだかすごく盛り上がってますね~(*^▽^*)
リアルすぎる話も面白い(笑)

もっともっと、盛り上げちゃってくださ~~い\(^o^)/

渋江四郎
2015年09月06日 13:14
shigeさん
いろいろと参考になる話ありがとうございます
ところで以下の痕跡はどこにあったのでしょうか?
>機銃掃射に・・・その痕も見た覚えがありますが

あと我々が知っている交通公園ですが、昭和43年に出来たようなので当時ものではないようです。当時のことは確認中です。

ここで防空壕から脱線します。

我々のころの岩小と太田小の学区の境は、旧16号だったと思いますが、今は違うようです。
渋江交差点を曲がり、裏小路の北側、そして裏小路が横町にぶつかり、クランクで新町を曲がって駅前通りまでの一角が岩小の学区になっています。いつ変わったのかはわかりませんが。
太田小の開校は昭和43年4月ですが、その前から学校があったのです。昭和30年7月から岩小の分校として、5年生が通うというような形だったようです。

日本一のマンモス校も見る影もなく、今の岩小はこの春は全校生徒407名、全15学級、今年の新入生はわずか56名です。
一方太田小は全校生徒729名、全22学級、新入生102名です。

たしか一学年で14クラスくらい有りましたから、このまま行ったら、学校の合併もあるかもしれないですね。
shige
2015年09月06日 16:53
古い連中と飲み過ぎました・・・
(深く反省していますー_-ゞ)

渋江さん
岩小の機銃掃射の跡は、まだ保育園時代、管理棟という平屋校舎を東西から南北に移動する作業の際に、赤屋根校舎の東側土台にあった傷痕を見ました。校舎の木造部分では無く、御影石?かなんかの土台部分でした。西階段下の北側土台付近だった事は間違いありませんが、なぜか岩小に入学してから痕跡を見たり、その話題になった記憶が一切ありません。どうしてだろう?

グラマン(と保育園の先生は言っていた)が学校裏の高架部分を走る野田線貨物列車を狙ったものの、外れた弾が何発か校舎に当たったそうで、校舎の階段部分にも当たっていたらしいですが、そこは既に補修済みでした。多分、これが良く聞く岩小が狙われたという時の話の様な気がしますが、野田線貨物ではなく、直接学校を狙ったのだと言う年寄りの話もありました。
shige
2015年09月06日 17:49
すみません、何やら東西南北がメチャクチャな書き方でした(汗)

正しくは、赤屋根校舎の東階段下、校庭側(北側)の土台部分、ということです。
渋江四郎
2015年09月06日 23:23
shigeさん
そういえば赤屋根校舎の話し、見た記憶がおぼろげながら思い出して来た気がします

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